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『ミュウツー!我ハココニ在リ』における考察/三枝みや

■第2章 ミュウツーの不安

 前述の文章がミュウの繁殖について私の立てた仮設であり、これから展開していく推論の前提条件となることをあらかじめ承知してもらいたい。なお、ここから先は特番内で描かれなかったであろう裏話を、いくつもの推測を元に私が勝手に考えたものである。私が願うのはあくまでミュウツーの『しあわせ』であり、けして彼をおとしめるつもりがないことを明記しておく(傍目には多少歪んで見えようと、ミュウツーへの愛は溢れんばかりなのだから)。
 では当初の特番についての考察に戻ろう。
 直接は関係ないかもしれないが、ふと思いついた疑問を先に片付けておこう。ミュウツーの率いるコピーポケモン集団+ミューたちは、いったいいつピュアズロックに移住したのだろう。コピーのピカチュウがしきりに外の世界の存在を強調していたところをみると、映画のニューアイランドから飛び立ってそう時間を置いてないようにも思えるが、ミュウツーのそこにたどり着くまでの苦労をうかがわせるような発言からすると、いくつかの地を転々としてきたと考えるのが妥当だろう。それよりも気になるのが、その映画からどれぐらいの月日が流れているのか、である。現実では三年が経過しているが、あの世界ではどうなのだろう。ミューの『育児休暇』問題を考えると、できるだけ長い時間が過ぎているのが望ましいのだが、主人公たちになんの変化もなさそうなことを考えるとそうもいかない。しかし世界観がいわゆる「サザエさん」ワールドのように時の存在を認識しないものだとしたら、登場人物の成長と時間の経過が必ずしも一致するものではない。それでも歳月が流れていると仮定するのなら、上記の理由で最低でも三年以上は経過していてほしいのが本音だ(そうでないと、これから進める話の都合上少々まずい)。
 では、ミューとミュウツーがつがいとなるまでに三年強が過ぎたということにして考察を続けることにする。
 久しぶりに姿を現したミュウツーは、自分の感情に一応の決着をつけて飛び去った映画のラスト以上に情緒不安定になっていた。側にミューがいないことを差し引いても、あの後ろ向きで自己の存在さえ疑問視する姿は妙に危なっかしい。彼があの嵐の中のバスを助けたくだりについては、ずいぶん性格がまるくなったものだと感心したのだが。それもミューとの生活及び心の交流があってこそのものだ、と個人的に力説したい。
 ここで大きく関わってくるのが、先に述べたミューの『育児休暇』である。もしこのとき彼らが繁殖期を迎えて産卵し、ミューが自分たちの卵につきっきりになっていたらどうだろう。そしてそれが孵化を控えて間がないとしたら。そうすると、ミュウツーのあの狼狽えぶりにしてもいろいろ説明がつけられる。人間にしろ動物にしろ、生まれてすぐの赤ん坊というのは自己と他者の意識の区別がついていないという。それもそうだろう、生き物は物心ついてから自分というものを認識し、それを足がかりにして自分でないものを理解するのだから。それでは、強力なテレパシーを有するミュウという種族の場合、よけいに自他の境界が曖昧なのではなかろうか。自我を確立しさえすれば、自分の思考と誰かの恣意を混同することもなく、無意識に雑音を排除するようになれるだろう。しかし乳幼児期はもちろん、孵化さえしていない卵の状態では自我の確立など望むべくもない。むしろ、周囲と取り巻く水の中に溶け出そうとする精神体を、どうにか肉体という枠の中に定着させようとしているようにも見える。少々飛躍しすぎるかもしれないが、孵化する前の卵の状態にあるミュウの子どもは、対峙する者の思考を鏡のように映し出してしまう、非常に不安定な存在ではないかと思うのだ。側に楽しむ者がいればともに笑い、おびえる者がいればパニックを引き起こす。だからこそある程度成長し安定するまでは、物理的にも精神的にも親の保護が必要不可欠だろう。ミューの抱えている卵が、もしあと半月も待たずに孵化する予定であったとしたら。睡眠学習も最終調整に入り、子どもの精神状態により気を配らねばならない時期だったとするなら、ミューが終始不在だったのもうなずける。つまり、そういう意味で文字通りの『育児休暇』だったというわけだ。
 ちなみにミュウツーの場合、本来なら睡眠学習に当てられるべき期間を薬によって強制昏睡状態に置かれたため、生きていくのに知っておくべき知識を伝授されなかった。そのせいで、いつも何かしら疑問を抱えては質問を繰り返す『なぜなにっ子』になったものと思われる。
 さて、ここまで長々と前置きをしてようやく、ミュウツーの精神状態について述べられるようになった。ミューにとってももちろんそうだろうが、自分たちの血をひく『子ども』という存在は、ミュウツーとってひたすら未知との遭遇に他ならない。親のいない自分が、生まれてくる子の『親』になる違和感。人間の手によって造られた、自分という存在についての根源的な疑
問。現実に息づいている生命を受け止めきれない不安。それらミュウツーの混沌とした、素直に生命の発育を喜べない意識を卵がストレートに反射させて(引きずられてこちらもパニックになって)しまうため、ミューが子どもの安定を優先させるべきだと本能で判断し自分ごと隔離してしまった。もしかすると、ふたりから一定以上の物理的距離を置かなければならなくなったことへの不満もあるかしれない。有り体に言ってしまうと、保育器に眠る赤ん坊に母親を取られて置いてけぼりにされた父親のような状態なのだ。ミューがそばにいない。その事実と感覚だけでも、ミュウツーは無意識のうちに不安を感じていることだろう。いくつものマイナスの感情が複雑に絡み合ってこじれたために、危なげないながらも辛うじて落ち着いていたミュウツーのアイデンティティー(自己同一性)が、ここにきて一気に揺らいでしまったのである。とどのつまり、あれだけ深刻な情緒不安定になっていたミュウツーは、『マタニティ・ブルー』になっていたというわけだ。大雑把過ぎる一般論と断りを入れておくが、「お母さん」の自覚は妊娠・出産とほぼ同時進行で起こるらしい。そして「お父さん」の自覚は、我が子と対面後、子育ての中で赤ん坊と一緒に育てていくしかないことを付け足しておこう。
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